|
次の金曜の夜、またここに。たしかにあの方はそう言ってくださった。あっという間に金曜の夜が訪れ、気付けば朝を迎えていた。その次の金曜の夜も待った。けれどもあの方は姿を見せなかった。あの方は、私の元には来ては下さらなかった。 「お嬢様、食事の支度が出来たのでお持ちしました」 ここ数年、私の周りの世話をしてくれるメイドが、銀のトレーに並べた食事を運んできた。ちょっとだけ焦げてしまっている、冷めて硬いパンと昨日と同じ温いスープ。小さなコップに注がれた水だけは冷たく美味しかった。メイドは優しいけど、必要以上に私に話しかけてはくれなかった。 「―――お嬢様」 だけれど彼女は珍しく声をかけてくれた。質素な食事はあまり食べる気がせず、パンを少し契って小皿に置いて、それと水だけ貰ってあとは返した。メイドはトレーを片しながら言った。夜更かしはなさらないでくださいと、ご主人様が。 「お父様が? お父様が、そのように仰っていたの?」 「―――夜中にお嬢様の喋り声が聞こえると、酷く気にされています。安眠が出来ないと」 「…そう」 お父様が私のことを気にかけてくださっていたと、微塵にも思ってしまった自分を酷く哀れに思う。お父様は生まれてこの方、私のことを放って置き続けた。名前もないこの私に、興味を一切持っていない方。私はメイドにお父様に謝っておいてくださいと伝え、彼女を部屋から追い出した。 ベッドに倒れ込み、枕にしがみ付いた。 「ひどく、ひどく寂しいですわ…公爵様…」 心も身も寂しい。あの方に出会って本の世界以外で、世界が初めて煌いた。無機質な世界に色鮮やかにあの方は突然現れた。リヴィウスの作品で見たどの登場人物よりも不思議で、何よりも人間らしい方。人間でなくても、そう思ったの。 以前、あの方から譲り受けたあの方のお母様の形見であるオペラグラスを大事に持ち上げ、胸元に沈めるように抱きしめた。 「公爵様―――」 コンコン…―― テラスの窓を叩く音。起きると窓ガラスに薄っすら浮かぶ、赤。 「公爵様…?」 「―――今晩は、マイレディ」 今宵は金曜の夜だったかしら? あなたが私を訪ねてこなくなってから、随分時が流れて、気付けば何もかも放心していたからわからない。けれどもあなたはこれまでのように微笑んでいらした。 「ご無沙汰になってしまい、申しわけありません、マイレディ。用事で、しばらく、遠くの地へ」 「ああ、ああ公爵様! もっとお顔を! 近くに寄っても、いいでしょうか…!」 「――マイレディ」 公爵様は、今宵も美しい赤い色をされていて、宝石のような深い紫の瞳で私を見てくださった。久しぶりに拝見した公爵様のお顔にそっと手を沿え、軽く顔を下に向けた。美しいお顔。 「マイレディ、こうしてまた、貴女にお会いすることが出来た。私は生きてきた中で一番の幸運を手にしたのでしょう」 「ああ、公爵様。私も、あなた様のお顔をこうして拝見できたこと、とても嬉しく思います…! あなたに会えなくて、とても寂しい日々を送っておりました…!」 「ああ! なんとイジらしい! レディはいつまでも美しい心をお持ちだ。貴女の言葉は凍てつく私の心を何もかも解かしてくださる。愛しのマイレディ、お手を」 「公爵様――」 私の手を取り、公爵様は軽く口を寄せた。手の甲に感じる公爵様の息と唇の熱。ああ、私も公爵様も生きている。 「さあ、レディ、今宵はどのようなお話をしましょうか」 その夜、公爵様と久々に談笑をしました。公爵様はここしばらくの出来事をゆっくり丁寧に、お話してくださった。聞いたことのない地名、いつか見たいと思っていたオペラの様子、各地にいるという公爵様の知人の話。いつも通りの夜のはずでした。 「マイレディ、そろそろお暇させていただきます」 「…ここしばらくのお話は、たった一夜で語りつくせるものではありませんわ。毎日とは言いません、公爵様のお暇な時に、好きなだけこちらへ来てください。私は一秒たりともあなた様を思わないときはございません…」 「――貴女は本当に美しい、マイレディ」 バサリと公爵様の背中に黒くて大きな羽。人あらざる公爵様はいつも神秘的で魅力的に見える。惚けている私の頬に手を滑らせ、ゆっくりテラスから離れた。宙に浮かんだ公爵様はいつになく寂しそうな笑みを湛えていた。 「公爵様…?」 「――貴女に出会えたこの人生を誇りに思います、マイレディ。これからの貴女の長い人生に数多くの幸あれ!」 公爵様は私に背を向け、どこか遠くへ飛び立ってしまった。 それが公爵様を見た最後の姿でした。 |