願い事の叶う樹
その樹は、枯れたのです。
でも、朽ち果てて土に帰ることはないのです。
枯れたままそこに在り続けることが、その樹にとっての存在意義なのだから。
「間に合わなかった…」
それは、ある一人の青年が流した涙でした。
今は公園の中央にある枯れた樹は、元々ある家の庭にありました。
そう、この公園が出来る前、この場所には一軒の家が建っていたのです。
立派な青い屋根の一軒家でした。
その家には、植物が大好きなおばあさんと、
おばあさんのことが大好きな孫、その孫の両親が四人で暮らしていました。
その孫が、涙を流した青年です。
彼は幼いころからおばあさんの後について、
庭の草木やたくさんの花に水をあげるのが楽しみでした。
庭に植えられた植物は、どれも生き生きとしていて、とても輝いて見えました。
彼には、そんな植物たちがまるでおばあさんの魔法にかかったようだと思えました。
おばあさんの手にかかれば、元気のなかった花がまたキラキラと輝くからです。
彼はおばあさんが大好きでした。
もしかしたら両親と過ごす時間よりも、
おばあさんと過ごす時間の方が長かったかも知れません。
たくさん話もしました。
幼稚園の時も、小学校の時も、その日あったことをおばあさんに話しました。
とても嬉しかったこと、悲しかったこと。
何でも話しました。
ある日の雨の日。
翌日に遠足がある日でした。
「おばあちゃん、あしたはれるかなぁ?」
「そうだねえ…」
「はれないと、えんそくいけないんだよ」
庭を眺めながら彼は言いました。
しとしとと降り続く雨が、意地悪く見えます。
そんな彼に、おばあさんは優しく言いました。
「…あの樹が見えるかい?あの真ん中の大きい樹だよ」
「うん、みえるよ!」
おばあさんの部屋の窓から見える大きい樹です。
枝をいっぱい広げて、たくさんの葉をつけています。
「ねぇおばあちゃん。あの樹はいつも花がさかないんだね」
「あの樹はね、花は咲かないんだよ。…でも、あの葉も枯れることがない」
「あの樹は、なんなの?」
「…願い事の叶う樹なんだよ。樹に向かって一生懸命お願いするんだ。
そうすると、願いが叶うのさ」
「ほんと?じゃああした、えんそくいけるかな!?」
「ああ。一生懸命お願いしたら、きっと行けるよ」
その時、彼は心からお願いしました。
明日晴れて、遠足に行けますようにと。
すると、翌日は晴れたのです。
遠足から帰って来た彼は、真っ先に樹にお礼を言いに行きました。
おばあさんが言ったことは本当でした。
樹に手を当ててお礼を伝えた幼い彼の足元には、
その樹の葉っぱがひとひら落ちていました。
実は、彼がこの樹の葉が落ちたのを見たのはこれが初めてだったのです。
あの日から、庭の真ん中にある大きい樹は、
彼とおばあさんにとって願い事の叶う樹でした。
そして月日が流れ、彼も成長していくに連れて、
おばあさんと一緒に庭の植物に水やりをすることがなくなりました。
勉強や部活、それから友達と遊ぶのが楽しくなったからです。
彼が成長したのですから、当然おばあさんも年を重ねていきました。
そして、あの願い事の叶う樹の周りには、
たくさんの葉が落ちるようになっていました。
彼が高校生の時です。
おばあさんは病気がちになり、起きていることが少なくなりました。
そして、彼もおばあさんの傍にあまり近寄らなくなりました。
「ちょっと、また出掛けるの?おばあちゃん具合悪いんだし、
少し顔見せてあげたらいいのに…」
「…分かってるよ。でも、今は忙しいから」
母親に言われなくても、おばあさんの具合が悪いことくらい分かりました。
なぜなら、かつてあんなに輝いていた庭が雑然としていたからです。
まるで魔法が消えてしまったかのように。
彼は辛かったのです。
庭を見ても苦しいのですから、
おばあさんにどんな顔して会えばよいのか分からなかっただけなのです。
いつしか彼の中から願い事の叶う樹など、どこかへ消えてしまったのです。
庭の真ん中にある願い事の叶う樹の枝についていた葉も、数えるほどになっていました。
それからまた月日は流れ、彼は大学生になっていました。
相変わらず充実した日々です。
勉強もサークルも、そしてアルバイトも楽しくて仕方ありません。
そんな彼にも一つだけ悩みがあります。
それは、家に帰るのが嫌なのです。
外とは違って家の中は何となく暗い雰囲気だからです。
いよいよ、おばあさんの容体が良くないのです。
彼は大好きなはずのおばあさんをずっと避けてきました。
どうしても見たくなかったのです。弱ったおばあさんの姿を。
庭の魔法も消えてしまいました。
彼は彼なりに、辛くて辛くてどうしたら良いか分からなかったのです。
そんなある日、彼の最も怖れていたことが起こったのです。
「おばあちゃんが…早く帰ってきて!」
母親が電話越しに言いました。
外出中だった彼は、急いで帰路に着きました。
どれくらい走ったでしょうか。
彼が街を駆け抜けるように、彼の頭の中でおばあさんとの思い出が駆け巡っていました。
そして彼は思い出したのです。
あの、願い事の叶う樹のことを。
辛くて庭もろくに見られない彼には、今あの樹がどうなっているか想像もつきません。
でももし、あの樹が本当に願い事の叶う樹なら…
―――ばあちゃんに…会えますように…!
どうしても叶えたい願いがあるのです。
明日晴れますようにと願ったあの時と同じように、必死に願いました。
おばあさんは言いました。
願い事の叶う樹なんだよと。
一生懸命お願いしたら、願いが叶うのだと。
願い事の叶う樹には、もう残り一枚しか葉が残っていませんでした。
そして、彼の願いを聞き届けるその直前に、その葉を散らせてしまったのでした。
「間に合わなかった…」
それは、ある一人の青年が流した涙でした。
彼はおばあさんが大好きで、そのおばあさんをたった今、亡くしたのです。
彼の願いは叶いませんでした。
久しぶりに見た彼のおばあさんは、すっかり痩せ細っていました。
握った手がどんどん冷たくなっていきました。
今にも目を開けて微笑んでくれそうなのに、どうしても動いてくれませんでした。
悲しみや後悔が涙でぐしゃぐしゃになって、知らない間に彼は庭に佇んでいました。
植物たちは、色を失ってそこにありました。
かつての輝きなど欠片も感じられずに。
そしてあの大きな樹も、葉をすべて散らせてみすぼらしい姿になっていました。
彼はその樹に胸を借りるように泣き続けました。
自分の弱さを後悔し、叫びました。
そしてなぜ、願いを聞き届けてくれなかったのかその樹を責め続けました。
「遠足なんかっ…どうでもよかったのに…!あんなもの…!!」
彼の手が樹を叩いていました。
その音が幹を伝って枝の先まで伝わっていきました。
悲しくて辛い音でした。
一頻り泣いて、彼は樹の下に座りこみました。
そこにはたくさんの葉が落ちていたのです。
ふと上を見上げると、昔あんなにたくさん茂っていた枝に一つの葉もありませんでした。
その時、彼は思い出しました。
願いが叶った時、ひとひらの葉が落ちてきたことを。
そうです。
この樹は願い事を叶える毎に、葉を散らすのです。
でも、彼はそれから願い事の叶う樹のことを忘れていました。
この樹についていた葉がすべてなくなるほど願いを掛けたのが誰なのか、彼にはすぐ分かりました。
おばあさんです。
だって、このことを知っているのは彼とおばあさんの二人だけなのですから。
彼がおばあさんと向き合えなくなってからも、
おばあさんは彼のために様々なことを願ったのです。
ある時は、友達と仲直りできますように、
ある時は、テストがうまくいきますように…
健康でありますように、笑っていられますようにと。
そして最期のその時にも願ったのです。
彼の傍に落ちている真新しい葉がその証拠です。
―――あの子がずっと幸せでいられますように…
魔法は消えたのです。
しかし、彼の中には永遠に生き続けるでしょう。
大好きなおばあさんの思い出とともに。
その樹は、枯れたのです。
でも、朽ち果てて土に帰ることはないのです。
枯れたままそこに在り続けることが、その樹にとっての存在意義なのだから。
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