声に寄せる三つの小説 名前は知らないが、どこか覚えのある化学薬品の匂いで満たされた理科室。 中学三年にもなって燃焼の実験など馬鹿げている。 ユカは頬杖をついて、6時間目の憂鬱な授業から視線を外へと向けた。 中庭は初夏で満たされている。 少し短いからきっとすすきではないだろう青草が、さわさわと少し強い風に揺れていた。 てっぺんの方は黄金色で−もしかしたら若いススキかもしれない−揺れる姿が随分美しい。 誰かの歌に合わせて踊るような、誰かの声に頷くような。 風は誰かの声なのかもしれない。 根拠のない、けれども確信的な思いが沸々とわいてきた。 不意に目の端で誰かが戸棚を勝手に漁るのが見えたが、教師も生徒も気付いていない。 最近、よくクラスでいじめられている男子だ。 ユカは外の声を聞きながら、目の端で彼の動きを確認していた。 −おい、馬鹿やろう授業を聞け いつの間にか教師が目の前に立っていて、 同じ班の生徒がアルコールランプの向こう側で笑っていた。 −いや、風が声… 口走ってからしまった、と思った。確信があるにしても自分にしかわかりえない話だ。 教師はちらりと外を見て溜息を吐いた。 −確かに声っていうのは兆しとか気配とかそういう意味もあるが、 今は国語じゃなくて理科だよ 意外な答えに少し驚きながらクラス中がクスクス笑っている。 (声が気配か) 教師が離れてからも、懲りずに外を眺めた。 (夏が近いのかもな) 空を見上げてそう思った。あまり細かくはわからないけれど確かに、季節で空は違う。 ノブオは手の平に乗せた方位磁石を乗せて、それを空に向けてみた。 今日、5時間目に理科の授業でクラスの女子が注意されている間に、くすねてきたものだ。 赤く印のついた針は真っ直ぐ夜空をさしている。 ノブオはいくつか星を見定めて、他より数倍輝く星に思い切り叫んだ。 −ハローハロー もちろんものの5分もしないうちに両親が入ってきて、暗い部屋の電気をつけた。 それでもノブオは叫ぶ。 −ハローハロー −ノブオやめなさい、何してるの 父親に後ろから抱きしめるように押さえられたとき、 クラスメートたちに殴られり蹴られた箇所が鈍く痛んだ。 しかし言わない。言おうとしても声は使いものにならなくなる。 ただの呼吸になりさがる。だから叫ぶ。 −ハロー大丈夫?辛くない? 自分でも何を言っているのかわからなくなりながら、まだ声は出るのだ溜め息が出た。 (僕の声はどこにも届かないのかな) 不可解そうに自分を見つめる両親を尻目に、ノブオは磁石を空に向かって投げた。 (壊れてしまえばいいのに) 結局ベッドに入ってからもそんなことばかり考えていた。 何が、とか言わないし自分の感情もよく読めない。気付いたら雀が鳴いていた。 ヒサシはうんざりして上体を起こした。 なんで壊れてないんだ。そんな理不尽な怒りを持ち、 同時に最近いじめているクラスメートを思い出す。 最初は殴るたびに呻いていたり、助けを求めたり声をあげていたのに最近は何も言わない。 がらんどうの目で自分を痛め付けるヒサシたちを見つめるのだ。 そうした行為が、学校から過度なほど嫌われているのもしっている。 そしてそれが非道徳的だということも。 だからどうにかしてほしい。イジメたいわけじゃない。 (いやこんなの言い訳か) ヒサシは鈍く痛む頭をガリガリとかいた。 心に巣くうくだらない破壊衝動が、何もかもダメにしている気がする。 いつか、人間は心を無くすと声を無くすと聞いた。 声帯はあるのだから、声自体がなくなるというわけではなく、 精神的な何かを無くすのだろう。 声は人間がもつ人間らしさの一つで、それを無くすということは一歩、人間から遠ざかることか。 −いっそブッ壊してくんねえかな 声は出た。けれども声ではないような気がした。 この声で、この口で、人の声を奪った自分。 (結局、俺だって人間から遠ざかってんのか) 頭が痛いせいだろうか。理科の授業で、教師が声について何か言っていた気がするがわからない。 (声、か) END |